愛媛大学社会問題研究会

愛大社研。現代社会の諸問題について自主的に学び合うサークルです。普段は読書会や茶話会を実施。ブログでは活動の告知や報告などを行います。詳しくはhttps://exnihilo1984.wixsite.com/eu-syaken2017

座談会レジュメを作成

 座談会企画「ブラック労働を考える」だが、当日の議論のダシになればと思い、とりあえず「基調報告」的なレジュメを作成した。基調というにはあまりに荒いまとめ方だが、無いよりはマシなはず。

 慌ててブラック企業関連の書籍について読んでみたが、思った以上に就活によるマインドコントロールの影響は根深いようだ。

 ある調査では、「ワークライフバランスに配慮してなさそう」など、学生が企業を見限る際の理由の比率が、就活開始前と開始後では大きく減っていたりする。もちろんこの間には、「自己分析」だの「自己PR」だの、これまでの人生の見直しという形で「企業に適する自己」なるものを再構築するプロセスがある。また、初期に大企業の熾烈な選考(最近はネットで志願できるから、人気企業は競争人口もそれだけ多くなる)でふるい落とされて、「選り好みしている場合じゃない」と労働条件を考慮する余裕を失い、ブラック企業も含めた中小企業にすべり込んでいくという状況がある。こうして、違法労働を問題と感じとる視野を欠いた「企業戦士」が生み出されていくのだろう。

 結局、働くことが、企業に雇用されることと同一化されているのだから、問題の本質はむしろ「就職予備軍」を大量生産する学校の方にこそあるだろう。成長など諸々の価値の実現が、産業制度に組み込まれる形でしか想像できなくなり、またそうした環境を現に生み出す根源が学校である。その辺をイリイチの脱学校論を要約する形でまとめたが、ぜひ具体的に議論してみたい。大学だってカリキュラムが過密化して、学習することが研究室なり授業なりで良い成績をあげることとほぼ同じという事態に陥っている。

 また、大学生活にある様々な「ブラック組織」に、直接あるいは間接に関わっている自分たちの生活経験を点検してみること自体も非常に面白い話題だとは思う。今回はブラックバイトとアカデミック・ハラスメントについてまとめたが、「やりがい搾取」するボランティア団体とか、他にも色んな手口で学生を「ブラック労働」に加担させる悪徳組織はあると思う。その辺りの実態を、参加者を募ってぜひ聞いてみたい(当たり前だがプライバシーに差し障りない範囲で)。

 まあ、内容的な話はこの辺で。今後は会場確保の件と、広報についてだ。今回はちょっとだけ頑張ってみます。仲間を、せめて10人いくかいかないか程度には集めたいと真剣に考えているので。座談会企画でいきなりそこまで集まる気はしないが、コンスタントに話し合える知人はつくっておきたい。

 

色んなイベントに足を運ぼう

 政治的社会的な講演会なり集会なりのイベントには、もう少し積極的に足を運んだ方が良いと考えている。当たり前といえば当たり前なわけだが、イベント主催側の提示する内容にばかり気を取られて、そこに実際に集まる人びとといかに交流できるかを、あまり念頭に置いてなかった。反省。

 ここ最近でも様々なイベントが周辺で開かれている。荻上チキ氏が松山に来訪されたこともあるようだし、大学にドイツ大使が講演を開いたこともある。それに愛媛では大抵櫻井よしこ氏の会が催される(今回は無いのかもしれないが)し、まあ、ちょっと気をつければイベントにあふれている。

 それらのイベントに足を運び、なるべくなら同世代の知人を増やしたい。単に隣に座る人に話しかけるだけでも良いし、質疑のついでに社研のやる企画を紹介して、プチ募集をかけるのも良いだろう。とにかくイベントのオフィシャルな意図をくぐり抜けて、独自に交流網をつくるようにしていきたい。

 まだ組織化される以前の、あるいは規定の組織化路線に躊躇している層を、抱き込んでやりたいのだが。

学生座談会企画案「ブラック労働を考える」

 冬休み合宿は見送ることにした。

 主な理由は二つある。一つは客観的に、希望者がほとんど集まらなかったこと。気の良い何人かの学友には声をかけてもらえ、勇気づけられもしたが、新規の学友を集めたいというねらいがあったので、それが達成できない分、読書会をただ遂行するのは徒労だと考えたということ。

 もう一つは主観的な理由だが、先の理由と関連して、読書会形式で仲間集めをする手法に限界を感じて、モチベーションが著しく萎えたということがある。読書会というのはどうも敷居が高いようだ。その点を加味して今回は「書評会」つまりどんな本でも良いから自分の関心のある事柄を書いたり論じた本や、あるいは単に趣味として好きな本を持ち寄ってダベろう、という要素も盛り込んでいた。だが、それもあまり効果が無かったように思われる。

 もともと、読書自体は非常に個人的な行為ではある。だが、今回一応選定したイリイチのテキストは、産業社会論、近代思想、学校教育など、それなりに窓口の広い、守備範囲の広い「名著」なので、たとえイリイチなど知らなくても、「おっ?」と思ってくれる人は一定数いるんじゃないかと踏んだ。何よりも私自身の問題意識(制度に管理された活動に対する疑義)ともかなり重なる主旨であるから、この際読みたかった。

 本を読むという行為自体が、何かしらの強圧さをかもし出す点はある気がする。最近どうも学生の中にある潜在的な不満なり違和感というのは、カリキュラム下で常に高度な学習を強いられることに向けられているのではないかという風に見ている。大学改革が叫ばれる中、今や「よく学ぶこと」は、公式に奨励されるどころか、システムとして遂行させられる事なのである。

 その顕著な事例はいわゆるクォーター制の導入だ。これにより必修系の授業の大半は「90分、週1回」から「60分、週2回」となり、過去のセメスター制では、たとえ内容的に不満を感じても、自分で本を読むなり、板書しながら教員に脳内反論してみたりするゆとりがあったのに対し、クォーター制では時間的な余裕も減り、とにかく教員の発信する内容を機械的に覚え込んで、授業の主旨と全くそれないような学習しかできなくなってきたのではないか。私自身クォーター制の授業には、著しくせわしなさを感じる。おそらくそれでもまだ基本的には単に「授業を受けるだけ」で済む学生よりも、授業を以前よりも早く、かつ正確に準備しなければならない教員の方が、強くそう感じている。いずれ社研がクォーター制を問題に取り上げなければならないのではと考える程度には、かなり無理のある制度だと思う。

 で、学生の学習意欲は、このように完全に制度に飼いならされてしまっている。おそらく今や社会問題なり政治について熱くなるような手合いは、一般学生からしたら、「デモとか迷惑かつ不気味なことばっかりしてるカゲキハ、アヤシイ人たち」なのではなく、まさにシールズの学生たちのような、ある意味どこまでも真面目に社会活動に励んでいる、ボランティアに熱心な「感心な人たち」なのだろう。自分たちも理屈の上では、彼らのやっていることに耳を傾けるのもやぶさかではないが、しかし実際にはあくまで無関係であり遠い「意識の高い」世界の出来事だと捉えて、漠然と眺めている…そんな見取り図が今の私には生まれている。

 そして社会問題に関心のある特定少数の学生は、逆にそんな不特定多数の彼らに対して漠然と疎外感を抱いて、「最近の若い人たちは何故政治に関心を持たないのか」とか、年長世代の定型文をリピートして、同世代を嘆いてみせたりするのである。シールズ辺りを見ていても思うが、勉強を真面目にする人が多いような印象を受ける。真面目といえば最近の同世代は、いや多分ずっと前からそうなのだろうが(確か隅谷三喜男の古い本にそういうことが書いていた)、大半の若者なり学生は真面目で、言われたことをきちんとやり、授業も出るし、指示された限りでは勉強もやる。

 つまりどういうことか。大半の学生にとって、社会問題を研究したり議論したりするのは、完全に「やらされること」と化しているのだ。いつも人から与えられるものであるにせよ、大勢の人たちがそれなりの時間と労力をかけて作ってくれる料理を、まあ多少大変だと思いながらも基本不満なく食べられている人たちが、向こうで「自分たちで一緒に料理を作ろうぜ」という呼びかけにわざわざ応じることがあるだろうか。まさにイリイチの論じた、制度への従属と価値の実現が前者優位の形で同一視される事態だが、彼らにいきなり「制度の外での学びを追究しよう」と言ったところで、抽象的な一般論、つまりお説教にしか聞こえないだろう。

 私自身の経験に即してもそうだが、制度の外での学びは、自分がまさにそうせざるを得ないと、状況によって「追い詰められた」からこそ開始しうるものである。全員が全員この制度外の学びを志向する必要はないが、潜在的に「社会派」的な学生まで、今のカリキュラム総体そのものに何の違和感も抱かないまま(しかも行動できない)というのは、いかがなものかと思う。

 そこで、私は学生たちに、決して制度内の学びでは解決しようのない社会問題について提起して、これについてとりあえず話し合うことを呼びかけたい(やっと本題)。つまり座談会企画である。題は「ブラック労働を考える」。

 今日び、「ブラック企業」を不当だと感じない向きなどほとんどない。少なくとも暴力団と同じく、公的には撲滅されなければならない部類だと見なされている。が、ブラック企業に関連した事件は後を絶たない。なぜか。薄々あるいは濃厚に、企業に「おかしさ」を感じながらも、相変わらずその企業にいつも通り適応している労働者が多数存在し続けるからである。労働者の「受動的な主体性」が(歯が浮くような「ケーエー理念」に固執したりなどして、何ら具体的な待遇改善を施せない悪徳経営者は当然にせよ)、ブラック企業を今日的に支えている。私は、この労働者の制度服従型の「主体性」を問題にしたい。

 それは学生にとっても他人事ではない。大学の内外には様々な社会活動の組織が存在しているが、ブラック企業まがいの「ブラックバイト」や、ボランティアの名目で「やりがい搾取」する団体、そして研究室内の狭い世間の中で横行するハラスメント…。学生の身の回りには思った以上に、「ブラックな組織」が氾濫している。そしてそれらは、私たち自身の「ブラックな労働」によって日々支えられている。この生活経験を具体的に点検してみない限り、一般論で「ブラック企業反対、法律の遵守を! 労働者は労働法の知識を!」と叫んでも何も変わらない。言っておくが、単に「労組に入ろう」で終わる話でもない。

 とりあえず既存の制度を究極的にはアテにできない問題をとりあげ、一生懸命悩んだり思いつきでアレコレ「床屋談義」して試行錯誤すべきだ、というのが、企画の一応の主旨になる。

 おやすみ前にちょこっとメモしとこう程度だったのだが、ついつい書き込んでしまった。とりあえず今のところは、この座談会企画について取り組んでいる。また学友には声をかけると思うので、よろしくお願いします。

 

 *こうやって一々持論を(質はともかく)過剰に展開するから、周囲が萎縮するというのもありえそうだ。だが私は口頭で話すのが苦手なので、一々書き残しているだけです。あまり気にせず。

今までのやり方に限界を感じる

 冬休み合宿の希望者が集まらない。もともと広報にも余り力が入ってないし、仕方ない面も大いにあるが、やはり誰一人として声すらかけられない(厳密には違うが)のは端的に虚しい気分になる。

 というより、今までの学習会(読書会)による学生の結集という手法に、ものすごく限界を感じている。社会問題を研究する、あるいは熱く議論する集まりを生成するというのは大前提としてあるが、その一環として学習会の持ちかけというのは、けっこうハードルの高い試みなのかもしれない。仮に私自身が部外者として観察しても、積極的に行こうという気になれるかは怪しい。特定のテーマについて学習する、読書するというのは、すでに何かしら社会への問題意識に目覚めた人にとっては、まず飛びつけるはずのネタだと勝手に思っていたが、大半は(関心ある人の中でも)違うのだろう。

 あるいは、とり扱うテーマ自体が、あまりに非実際的すぎるというのもあるのかもしれない。冬休み合宿はイリイチの脱学校論プラス書評会だが、単純に、今ある社会問題をストレートに訴える形の話ではない。もっと学問的に「宙に浮いた=机上の」議論という体裁を装ってはいる。例えば「ブラック労働を考える」とか「クォーター制度の諸問題」とか、身に迫るような類いのテーマを痛快に打ち出すことで、多少なりとも、それを見かける人の反応(ノリ)も、変わってくるように思われる。

 それにはまず自分が具体的に個々の社会問題に関心を持って、勉強しないといけないわけだが、いかんせん他にやるべき勉強はたくさんあるので、自発的に本気でやるぞ!と思えるように条件を整えなきゃならないというところは、残念ながらある。

 

イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』

 すでにうまく学校化されてしまっている人々の中から、教育を目的としてふさわしい仲間同士を出会わせるということは、また異なった仕事である。お堅い雑誌類を読む人々の間においてさえ、そのような援助を必要としない人々は少数である。大勢の人々を、スローガン、言葉、あるいは、絵画などをめぐる議論のために集めることはできないし、また、そうすべきでもない。しかし、考え方まで捨てる必要はない。すなわち、彼らは自分たちのイニシアティヴによって選び、かつ定義した問題をめぐって会合することはできるのである。創造的で探究的な学習をするためには、同じそのときに、同じ言葉や問題で悩んでいる仲間が必要なのである。大きな大学は講義の数を増やして教育上ふさわしい相手を出会わせようとするが、それは無駄な努力である。一般的にいってそれらは失敗するのである。というのは、大学はカリキュラム、講義という構造、および官僚制的な運営に束縛されているからである。大学を含めて学校では、儀礼に従って限定されている範囲の中から、あらかじめ問題として決められている事柄をとりあげようとする少数の人々の時間と学習意欲を購入することに資金の大部分が費やされている。最も根本的に学校にとって代わるものは、一人一人に、現在自分が関心をもっている事柄について、同じ関心からそれについての学習意欲をもっている他の人々と共同で考えるための機会を、平等に与えるようなサービス網といったものであろう。

 

 ようやく半分読み終えた。直訳気味でややこしい箇所も多いが、ところどころにポストモダンな問題意識が露呈する辺り、時代の産物らしさを窺わせる。ポストモダンなというのはつまり「1968年」以後の、古典的なマルクス・レーニン主義による同時多発的な「先進国革命」が頓挫して以降の、その反省作業としての性格を持っているという文脈においてだが(文中でも「マルクス主義者は制度さえ変えれば良いと考えているが」云々と明示的に批判している箇所がある)。

 それにしても「学校的なもの」の気持ち悪さが痛快なまでに言語化されていて刺激的である。自分のやってることも、要するに「フリー・スクール」運動とさして変わりないような気もしてきた。自分としては彼らの運動にも「もっと柔軟にやわらかな草を食べたい羊だっているんですよ、牧場主さま」的な現状回収的な不能さを感じるから、どうにも共感しきれないのではあるが。

 とりあえず読書会をやるなら、第ニ章と第三章辺りをやるのが一番効率的かもしれない。

懇親してきた

 今日は幾人かの学友と懇親していた。相当頭を使い、疲れたが、全く世界観の異なる相手とじっくり話し込んでみるのも良い経験ではある。世界観が異なるようでいて、目指す方向性が正反対のようでいて、お互いに補完し合えるかのような欲望を持っているというのには、意外に笑えたが。

 そして学問と教育の世界にはやはり入り切れないなと再認識。とくに後者では、教育者となることで「支配する快感」が発動してしまうらしく、ああこうやってリベラルな人たちがどんどん権力構造に既成事実的に組み込まれていくのだろうか、とも感じた。しかし教育制度をかいくぐりながら、教育なる価値を実現しようと模索する学友の姿にはやはり心打たれるものもあり。やはり外在的に何もしてない私はまだまだダメだ。

 学問の世界だが、これはよくわからないままになっている。価値は認めるが、それを大学という制度で実現しようとするからこんな教員の寡頭支配(その上には高等教育制度による学問支配がある)がまかり通るのかなと思わないでもない。教員と学生が一種の知的共同体の対等な構成員であれた時代はとっくに過ぎ去り、もはや大衆化し切った学生の群れに旧態依然とした「学問のすすめ」を押しつける教員の講壇には期待できない。もっともこの問題意識を、大衆化した学生たちと共有できない(むしろ私自身がプチ教員と化してしまう)のは、歯がゆくもあるが。

 せめて教育や学問に、当たり前の社会批判の精神なり政治性を取り戻したい。破綻が明らかなマルクス主義でも、現状を微調整するだけのリベラリズムでもなく。やはりもっと右傾化して、レッドパージ闘争でもやるしかないのか(北朝鮮を擁護する国賊教員の追放運動とか)?

 

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卒業後のことをつらつらと

 ふと思うが、私が卒業したら、この社研はどうなるのだろう。卒業自体はまだまだ先の話であるにせよ、このまま公然会員が代表のままという状態が続けば、代表が大学を去ると同時に、社研は自動消滅ということになる。

 別にそのこと自体は、構わなかったりする。もともと既成の諸々の学生集団・学生団体のどことも馬が合わなくなり、居場所を失ったわけだったから、「居場所が無ければ自力で創り出してやろう」と一念発起して始めたのが、この社研サークルだった。

 結成からおおよそ半年以上経過したが、実際に一緒に活動なり交流できた学生は大体十数名くらいで、量的には大した規模ではないにせよ、一定程度には当初の目的を達成している、といえる。だから、まず何よりもこの私という現実存在が居場所づくり、仲間づくりを始める手段として社研は結成したのだから、私が卒業したから社研が自動消滅するというのは、むしろ自然でさえある。

 もちろん社研が私一人をこえて量的にどんどん拡大してくれたら(せめて数人程度の同じように悩める学生たちの、居場所づくりのきっかけになれば)嬉しいが、個人的に念頭にあるのは、組織そのものが継承されることよりも、問題意識なり活動の質が継承されるかどうかという点にある。

 どういうことか。この際だからぶっちゃけてしまうが、私はかつて、まるで社研のように社会問題を研究する某学生団体に所属していたのだが、その団体は、まあ何というべきか、露骨に日共くさい組織だったのだ(念のため言っておくと民青ではないが、民青と人脈的な繋がりがあってもおかしくない程度にはひいきにしていた)。

 この「日共くさい」というのは、要するにマルクス主義を「党是」にしているようなところがあるという意味だが、それだけではなしに、下部メンバーが、「民主的」(といっても団体外で指導・引率する年輩者の非公然の指針のもと既に半ば指定された上)に選ばれた上部メンバーに絶対服従するという、そう、いわゆる「民主集中制」の組織原理を採用している辺りまで、そっくりだった。

 この辺りの問題について、日共そのものを含めた広い政治的文脈の中で知識を得たり考えたければ、それこそ立花隆日本共産党の研究』(文庫本だと特に一巻)を読めば大体網羅されているので、ここではあまり突っ込んで論じない。

 ここで言いたいのは、今現実にある日共より、その「小日共」じみた学生団体を通過した自分自身の経験をよく咀嚼した上で、そこから経た問題意識を一つの基盤にして、今の社研の活動がある、ということだ。

 一番まずいなぁと感じたのは、やはり組織内で特定のイデオロギーを(しかも既成事実的に)公理公式に指定してしまう点。それによって組織の具体的な活動が、実際に活動を展開する上で最低限必要な学生の福利とか充実感とか創意工夫とかを挟む余地なく、あるイデオロギーの「正しさ」を証明する手段に成り下がって、硬直化してしまう。抽象的な理念理論に、具体的な個別活動が過度に従属して、組織自体もやがて萎縮して、前例踏襲のルーティンワークしかできなくなる。たまたま組織の上層部が、実態なり状況に応じて微調整できるような「機転の利く」人たちならそれほど問題は表面化しないが、そうでない場合(それが平均的だが)、下部が物申せない集権(「的」ではない)体制下では露骨に破綻をきたし始める。

 こんなことは、世に跋扈するブラック企業の風説を見聞するだけでも、一般論としてはありふれた現象である。が、それを自分自身の身に詰まる問題として受け止めて、立ち向かわざるを得なくなったのは、他ならぬこの団体を経験してからだった。マルクス主義というイデオロギーが現にあることは間違いなく事実だし、それは、よい。しかしマルクス主義であれ、もっと穏健なリベラリズムでも保守主義でも何でもいいが、ある特定のそれなりに体系的な思想信条が、個人をこえてシステムとして公理化されると、とたんに実際の個々人の行動の足かせとなる。少なくともそういう負の側面を、表面化しようが潜在化しようが、いわば「組織の原罪」として背負い込まなくてはならなくなる。そして最悪の場合、特定の思想信条を体現したことになっているその時点での上層部が、「正論で人を殺す」事態に陥る。

 冗談ではない。社会問題なり世の中について学びたいから団体に入ったのに、このままじゃ自分は組織に使い古される、と(その時点では強く感じなかったにせよ)思いそこを離れるに至った。しかし社会問題を研究して世の中なり、少なくとも自分の身の回りや大学の状況を少しでも(単に自己啓発的な意味合いであれ)変えていきたい意志は依然として変わりないので、独自に社研サークルを立ち上げるに至った、という顛末になる。

 社研で今まで出会った学生には、右翼的な人もいれば左翼的な人もいた。もちろんどちらかといえば非政治的な人もいたし、そもそも私が社研をしているとわからないままに関係を持った人だっている。唯物弁証法だか何だかの教義に照らして「こいつはこの水準だな」とか「こいつはこの到達段階だ」とか当てはめて制御なんてする余地もない。憲法とか議会政治とか哲学とか観光とかを、色々互いの関心に即して自由に議論している。活動は学生自身が自力でつくるものだからだ。

 ここからは明らかに、某団体から得た経験を批判的に継承しようと、活動の質も意識的に「向上」(向上になっているとよいが)している、とりあえずしようとしている。長くなったが、要するにもし愛媛で社会問題なり時代状況なりを学び合える空間をつくりたいと模索している人たちがいれば、こういう経験の継承をきちんとできるような環境が成り立てば良いな、と思うわけだ(もちろんそんなことを設計的にやろうとしても、色々きしみが生じるだろう)。そのために今までネットで社研が書き散らしてきた活動記録は、自動消滅しようがなるべく残すし、願わくば未来の学生がたまたま読んで、一念発起する材料になれば幸いである。

 卒業後の構想もちょっと考えていたが、それはまた別の機会に発表したい。